親の葬儀・子の葬儀(石村)

親の葬儀・子の葬儀(石村)
私、石村はキリスト教会、なかでもプロテスタント教会(新教)を主な対象とする葬儀業を生業としています。お手伝いした葬儀のほとんどは高齢者が亡くなり、子がいわゆる喪主となるケースです。一方でその逆、子供が亡くなって親がその葬儀をするということも時にはあります。いずれであっても私は一所懸命にお手伝いをします。
さて葬儀後、幾年か経ってから依頼者と再会することが時にはあり、大抵の方がありがたいことに、その節はお世話になりました、いいお葬式をありがとうございました、と言葉をかけてくださいます。その後あれこれと立ち話をすることになります。

ここから先は私個人の観察に過ぎないのではありますが、亡くなったのが親であった場合と子であった場合とで、喪主の話す内容に大きな違いがあるように思われるのです。亡くなったのが親であった場合、私との再会の時点で依頼者にとってその葬儀は既に過去のことになっており、依頼者は葬儀後、親のいなくなった、それまでとは異なる世界で人生経験を重ね、そうした新たな経験の蓄積に伴って親の死は徐々に過去のことになりつつあるという印象を受けることが多いです。この場合、私との会話の内容は、葬儀の後どうしていた、何がどうなったという、葬儀後にあった出来事が中心となります。一方で、子の葬儀を行った依頼者の場合、葬儀がまるで昨日あった出来事であるかのように、葬儀自体を話題にすることが多いのです。良い葬儀をしてくれてありがとう、と涙ながらに言われることもあります。葬儀の日から、心の中でずっと、亡くなった子と共に生きてきた、子は昨日も、今日も、心の中に鮮烈に存在し続けている、という印象を受けます。過去のことになるのに長い時間がかかるということを目の当たりにしてその悲しみの大きさに言葉が口から出てきません。いや、過去のことになる日なんて来るのだろうか、と自問したりもします。

石村修善

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